山伏が拓いた阿賀北地域

 

鎌倉時代以降越後北部地域を治めていたのが地頭として入国した揚北衆と呼ばれた国人豪族です。小泉荘では本庄氏を宗家とする秩父党、奥山荘では中条氏を宗家とする三浦党、加治荘では加地氏を宗家とする佐々木党、白河荘では安田氏を宗家とする大見党などです。揚北衆は強い独立性を持ち豊かな文化を通して郷土の風土を作ってきました。

 

 

凛とした佇まいである郷土の山々。山は古より多くの恵みを与えてくれる信仰の対象となってきました。古くから山岳信仰の聖地として多くの修験者が訪れていたのです。修験者は山伏と呼ばれ心身統一を目指し深山幽谷に入り厳しい修行を行いました。衆生救済を目指し加持祈祷し病気の人を癒し死者の弔いをし、貧しい人に施しをなすなど無償で為に生きる生涯を求めたのです。この山伏が拓いたのが二王子岳であり蔵王権現であり五頭山でした。それぞれ役行者、空海が拓いたとされますのでその歴史は1200年以上にのぼります。

 

揚北衆は修験道の拠点となった神社仏閣を篤く保護してきました。揚北衆が築いた風土の根は修験道が求めた精神世界にあるのかもしれません。 

二王子神社

華報寺

 

大同年間にこの地を訪れた弘法大師空海が拓いたとされています。また一説には天平年間に行基菩薩が五頭山で修行した際、霊木から4躰の優婆尊像を彫刻し一宇を設けて安置したのが始まりとし、現在本堂で安置されている優婆尊像はそのうちの1躰とも伝えられています。

 

創建後華報寺は五頭山海満寺福性院といい末寺として4院と31坊の堂宇を抱える大寺院で高野山に並ぶ真言密教の一大道場でした。

 

平安時代後期には城氏から乙宝寺、法音寺と共に領内3カ寺として庇護され栄えた寺院でした。鎌倉時代には地頭職である大見氏によって庇護され山岳信仰の拠点の一つとして大きく繁栄し、仏教文化の中心地として発展しました。

 

その後1477年に現在の村上氏にある耕運寺六世大安梵主和尚が再興し寺号を五頭山華報寺と改名し曹洞宗に改宗しています。