佐々木盛綱と護念上人

 

中世の新発田の歴史を開いたのが佐々木盛綱です。16歳で伊豆に流された源頼朝の身辺に仕え厚い信頼を得ていきました。源平合戦でも藤戸合戦で海を馬で渡るという奇襲攻撃を仕掛け勝利に大いに貢献しました。その恩賞として加地荘が与えられ地頭として以後400年近く佐々木加地氏が治めるようになりました。藤戸神社は藤戸合戦で浅瀬の情報を聞き出した漁師を殺害した盛綱がその漁師の供養のために建立したものでした。この藤戸合戦の様子は「平家物語」藤戸合戦の段で描かれ、室町時代には世阿弥によって謡曲「藤戸」が作られ、盛綱が供養することで漁師の恨みが解かれていく内容が描かれており後世に伝えられることとなりました。

 

その盛綱に大きな影響を与えたのが叔父でもあった菅谷不動尊の開祖護念上人でした。護念上人は1159年平治の乱で源氏が敗れた後比叡山を出て不動明王像の御首を納めた笈を背負い諸国を行脚しました。源氏の罪を償うため生涯を民の救いの為に尽くされたのです。長い諸国行脚の末菅谷の地にたどり着いた護念上人は、笈を掛けて休んだ松において菅谷の地を安住の地とするよう天啓を受けます。盛綱と共に頼朝に面会した護念上人は頼朝の娘の病気を癒します。頼朝から寺の寄進の話もありましたが、一切の富を断り生涯を小さな草庵で過ごされました。近郷近在を托鉢し病気の人怪我の人に対して貴賤を問わず手当てをし、得たものは全て困っている人に施し与える日々を送られたのでした。その私心のない生涯が民衆の心に残り世代を越えて受け継がれ菅谷不動尊が今尚多くの人の信仰を集める由来となっています。

 

(参照:木村尚志先生著「護念上人と源氏滅亡」

 

 

 

 

 

香伝寺所蔵の佐々木盛綱の屏風

 

 

 

 

岡山県倉敷市にある佐々木盛綱像

 

 

 

 

護念上人のお墓

菅谷不動尊 菅谷寺(かんこくじ)

 

日本三大不動尊の一つとして知られる菅谷不動尊。

ここを拓かれたのが源頼朝の叔父にあたる護念上人です。護念上人は平家の圧力により比叡山から逃れる際、帰依していた比叡山無動寺の不動明王像の「御頭」を背負い諸国を行脚したのち、1185年に越後に一宇を建立したのが菅谷不動尊です。

 

本尊の不動明王像は毘首羯摩の作で最澄が招来し比叡山に祀られていたものとされています。菅谷のお不動様の名で親しまれ、とりわけ眼疾にご利益があるとして今も多くの参拝者で賑わっています。例年428日には大祭が開催され地面に炉をしつらえて護摩を焚く「菅谷不動尊紫橙護摩」が行われています。

 

現在の本堂は、1770年に再建されています。実は、それまでの500年間、本堂は焼失してありませんでした。その間も不動明王は大切に祀られ、信仰が受け継がれてきました。それは、この地の先祖、先人たちが親から子、子から孫へと伝えてきたことによります。護念上人の心を受け継いだ先祖たちの精誠を感じます。

法音寺

 

729年聖武天皇の勅願により行基菩薩と印度の婆羅門増正の両高僧により開創されました。その後弘法大師空海が立ち寄られ真言密教を布教されたと言われています。平安時代後期には平家城氏の庇護を受け領内三カ寺の一つとして乙宝寺、華報寺と共に繁栄の歴史を刻みました。

 

その後源平合戦で平家が敗れ鎌倉幕府が興りました。しかし当地では城資盛の乱が起き、これを制圧したのが近江源氏佐々木三郎盛綱でした。盛綱は加地荘を拝領し地頭としてこの地を治め以後400年に渡って安定した治世を実現します。盛綱が源平合戦で被害を受けた法音寺を再興し、加地氏の祈願所ならびに菩提所としました。その後主君源頼朝の急死に際し、盛綱は頼朝の供養のため五輪の供養石塔を建立し自らは「加地入道西念」と名乗り法音寺に帰依したのです。加地氏の庇護と領民の信仰により七堂伽藍の堂塔を誇り下越地方の名刹として繁栄しました。

 

 

18代春綱の時代に菩提寺は香伝寺に移りますが。長く加地氏の菩提寺として盛綱の心を現代に伝えてきました。今も6月の火渡りには多くの参詣者が訪れ山伏の伝統を感じさせる古刹です。

 

法音寺火渡り

香伝寺

 

1021年平保比丘尼の開基と伝えられています。

当時神応院と号し天台宗でありましたが1185年佐々木盛綱が加治城主となり、天正年間(157392)春綱の時曹洞宗に改宗し菩提寺となりました。

 

村上の耕雲寺八世固剛宗厳和尚を請して開山とし香伝寺と称しました。しかし、その後間もなく戦乱の中で佐々木氏滅亡とともに堂宇焼失しましたが、大檀越関甚兵衛等が伽藍を整備し今日に至っています。

 

加地氏菩提寺であり、18代春綱と19代景綱の位牌が収められています。また加地氏ゆかりの馬具や藤戸浦物語の屏風図など貴重な文化的遺産も残されています 。